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2007年8月14日 (火)

私の川柳観について

「私の川柳観について」
        

 朝日新聞六月十四日二三面の記事「日常の息遣い詠み込むー蛇笏賞を受ける岡本眸さん」(佐々木正紀)によれば、岡本眸さん(79)が、句集『午後の椅子』で俳壇の最高賞である第四一回蛇笏賞を受けるという。

岡本さんの「俳句は詠もうと思えば、誰でも、どこでも出来るもの。勝手人間で好きなことをしてきましたが、師や仲間に恵まれました」という言葉と句が紹介されている。

霧冷や秘書のつとめに鍵多く
更けて書く鉛筆くさき春厨
柚子湯出て夫の遺影の前通る
初電車待つといつもの位置に立つ

 四句目の句について、「近くの駅の風景だ。読んだ人が『そう、そうだわ、と思ってくれたらうれしい』。日常の何げない所作、息遣いのひとつひとつを詠み込んできた句は深まり、さらに精彩を帯びてきた。」と記事にある。

 これはまさに川柳ではないか。この眸さんの言葉はまさに川柳の本質ではないか。私の主張する川柳そのものだ。季語が入っているから俳句であるが、私はむしろ川柳の要素が強いと思う。特に四句目は季語は「初電車」だと思うがいつの季か不明である。

川柳以外の何ものでもないと思う。

私の考えは、川柳は五七五以外の何の制限もなく季語を入れてもよいし、俳句となっても良い。俳句と呼べば俳句だし、川柳と呼べば川柳なのだ。

川柳は滑稽を詠まなければならないとか、人情の機微をよまなければならないとかいった制限・枠は一切不用である。詠みたいものを五七五に詠めば良いだけなのだ。

俳句は制限(季語の枠)があるから、詠む時が限られるだろう。川柳はいつでも詠める。なんの制限もないからだ。ただその結果である作品が他の人に受け容れられるかどうかが問題なのだ。

自分の詠んだ川柳が自分の意図の通りに理解されるかは不明であり、多くは読み手の自由に解釈され受け容れられる。

俳句よりもこの点では不利であろう。
俳句の場合は季語で大枠がはめられる。理解もその枠内ですれば良いのだ。

川柳はその点、範囲が広いからその内容を限定して解釈することが難しい。つまり作者の意図を超えて読み手が作品を解釈してしまうということがよく起るのだ。

作者も思っていなかったような理解がされ、その解釈のほうがずっと良いということが起こる。そうした自由性が許される句が「川柳」なのである。

私は眸さんの言葉「俳句は詠もうと思えば、誰でも、どこでも出来るもの」を「川柳」そのものと考える。
これは川柳も俳句も「俳諧」から生まれたものだから当然といえば当然なのだ。

私は俳句より詠みやすい川柳をもっともっと普及させていきたいと思う。五七五を歌のように吐き出していけば良いのである。
川柳のカイコとなって次々に句を詠んでいきたいと思う。

先生の注意
◎川柳は詠みやすく、解釈も自由な点が素晴らしいとあるが、分ったような分らないような気がする。

◎そんなに自由なら五七五でなくてもいいのですよね。五七五もこだわらない川柳もいいとすれば、何をもって川柳とするのかーー素人のワタシには分りまへん、ゴメンなさい。

◎文の流れは良いが、ダブリ(くり返し)が気になる。その部分を倹約して、もっと重要な別のコトを述べたいところ。

       

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