水上勉の処女出版「フライパンの歌」が書かれた浦和
水上勉全集第26巻の年譜によれば、 「フライパンの歌」は昭和二十三年七月に出版されたという。
年譜の昭和二十三年(1948)二十九歳の項は
「五月、宇野浩二と湯河原、熱海に旅行。短編集『風部落』を刊行。七月、宇野浩二の推薦により、文潮社より『フライパンの歌』を刊行、ベストセラーになる。十月、浦和市白幡町の内田辰男方に転居。文潮社に入社。季刊誌「文潮」に、「わが旅は暮れたり―雁の寺」を発表。のちにこれが改作されて、直木賞受賞作の「雁の寺」になる。十二月、吉行淳之介、柴田錬三郎、青山光二、十返肇らを知る。」
とある。
この年譜の内容によると短編集『風部落』が先に出版されているように解釈される。
しかし水上勉本人も『フライパンの歌』文庫版のあとがきで「『フライパンの歌』は昭和二十三年七月十五日に文潮社から刊行された。私の処女作出版である。」と言っているように、処女作出版は『フライパンの歌』である。初版本の奥付もそのようになっている。
『風部落』はやはり文潮社から出版されたが初版は昭和二十三年九月一日発行であり、そのあとがきに「これは、私の第一創作集である。・・・さて、この本は、私の処女出版であった「フライパンの歌」を上梓して下さったところの文潮社から、またまた発行していただくことになったのであるが、・・・昭和二十三年七月三十日 浦和市白幡の仮寓にて 水上勉」と書かれている。
以上からわかるように浦和への転居が昭和二十三年十月という記述は誤りである。というのは『フライパンの歌』の目次の中に「第十章 蔵住まひ」とあることからもわかるように、浦和移転後の記述が含まれているからだ。
私が最初に読んだ新潮文庫版『フライパンの歌』(昭和三十七年二月二十八日初版発行、昭和四十一年三月三十日三版発行)にそうあったので、処女出版以前に浦和移転があるはずであると思った。さいたま文学館の図書室で初版本を調べてみたが、初版本と文庫本とは内容は全く同じで、「あとがき」が違っているだけである。
つまり浦和移転と蔵住まいの記述は『フライパンの歌』の中に最初から書かれていた。
さらに転居先の内田辰男氏の証言が示しているが、水上勉は浦和の蔵の中でもこの『フライパンの歌』を書き続けていたのである。
また水上勉自身が浦和移転を昭和二十二年と言っていることがわかった。
水上勉『私の履歴書』(一九八九年五月二十日第一刷発行、筑摩書房刊)に依れば、
「虹書房が倒産したときは、先生にはめいわくをかけた。世田谷にできた文潮社へつとめても、宇野先生の厚情はかわらなかった。ぼくは書房の倒産もあって二十二年に神田から浦和へ越した。白幡町の農家内田家の離れであった。そこへもよくハガキがきた。ぼくは浦和から子をつれて、森川町へ通った。M女は生活費をかせぐため、ダンスホールにつとめてくれていた。子はまだ二歳だった。何やかやこの当時のことを書いてゆくと、枚数がつきない。ぼくという人間が、ほんの少しずつうす皮がむけてくる時期はまだ訪れていない。まだまだ鼻持ちならないイヤな男、青二才である。「フライパンの歌」を書いたのはその頃であった。」
とあり、はっきりと浦和移転が先だと言っている。
つまり浦和という町は、水上勉の処女出版作品『フライパンの歌』が書かれた町としての栄誉を荷っているのである。
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