「旅の思い出」
旅と言うと何かしら楽しいほんわかとした気持ちになるのはなぜなのか。
しかし旅にはアムンゼンの極地探検の旅の例もあり、三蔵法師の仏典を求めての艱難辛苦の旅もあり、決してほんわかしたものばかりではない。
そして思い出は、本人の記憶に基づいたものが本来であろう。
だからこれから書こうとしている「旅の思い出」は、極めて特殊な「旅の思い出」と言えるだろう。
私の父母は、父が二八歳、母が二三歳で結婚した。そして二人は昭和一六年結婚後直ぐ満洲へ行き、父は奉天K大学のドイツ語の教師となった。
祖父の関係で就職が決まったのか不明だが、祖父も二回ほど満洲へ行っており何らかの関係があったと推測出来る。そして昭和一七年私が誕生し、一九年弟が生まれた。
父母の住宅は東京で言えば、東京駅前の丸ビルの近くという場所で、奉天駅の目の前であったらしい。さらに言えばその建物は現在でもまだ残っているのではないかと推測され、私は是非訪れて見たいと思っている。
父が教えていた奉天K大学は、「五族協和」のスローガンのとおり日本人、中国人、朝鮮人、満洲人、蒙古人が学ぶ大学で、父はあまり歳の違わない教え子達を弟のように可愛がったのであろう。
そこで学んだ多くの人たちが戦後それぞれの国家の再建に大いに貢献したとのことである。
当時満洲は日本国内よりも生活文化の水準が高く、特に日本人は本土水準の倍近くの給与を貰っていたらしいので、父母と幼児二人の家庭は何の危惧も無いままのんびりと生活していた事だろう。
しかし運命の昭和二十年八月九日ソ連は不可侵条約を破棄して対日参戦を宣言し、戦車隊を先頭にソ満国境から侵入した。主力がほとんど南方へ転進していた日本軍はごく少数の国境警備を残すだけであった。こうして国境近くの開拓地にいた日本人たちは強力なソ連の戦車隊に壊滅的に攻撃を受け全滅させられたり、あるものは集団で自決し生き延びて脱出出来たものは極めて少なかったのである。
父母たちは奉天にいたので直接攻撃を受けることはなかったらしいのだが、直ぐ成人男子は招集を受けることとなり、さらにソ連軍の捕虜としてシベリアへ連れていかれた。
スターリンはシベリア開発に日本人捕虜の労働力を利用することを目論見日本軍の将校に申し入れたのだ。捕虜たちは一時は「日本へ帰国させる」と言うソ連軍の説明を信じおとなしく連行されたのだが、列車が朝鮮の方向ではなくシベリアに向け進行している事を知りがっかりしたとのことである。
父たちは教え子たちから慕われていたため、「中国人街にかくまおう」と言う提案があったようだが、他の日本人達に悪いからと妻子を置いたまま召集に応じていった。
これについては父から聞いた事はなかったが、現代に生きる私としては納得できないのである。
もし私ならば愛する妻子を置いたまま捕虜となる事は出来ない。だからいかなる手立てを用いても逃亡し中国人として隠れ住む事としたであろう。
そしてここから思い出の旅が始まる。
引き揚げの船は興安丸と他の船があったらしい。どの船でいつ戻ったのか全く不明である。母は勿論知っていたと思うが、私は聞いた覚えが無い。出発まで和菓子(桜餅など)を作って市場で売り歩いたとの話を聞いた事があるので、船が来るまで或る期間待たされていたと思う。船が出る港はコロ島で、そこから舞鶴までの引き揚げの旅であった。
母は背中にリュックを背負い、胸に赤ん坊の弟を抱え、三歳か四歳の私の手を引いて着の身着のまま引き揚げてきた。ある時幼児である私にこうもり傘を唯一持たせたという。しかし次ぎの瞬間カッパライに見事に奪われてしまったそうだ。
したがって家には思い出になるようものは何も残っていないのである。帰るだけで精一杯だった。
その当時私はまだふっくらとしていて可愛らしい幼児だったので、よく中国人から「売ってくれ」と言われたそうである。もし母がそうしていれば私は間違いなく「大地の子」となっていた。
船の中はぎっしりと詰め込まれた人達で身動きも出来ないような状況だった。故郷へ帰れると言う希望と、そこまで無事にたどり着けるかという心配とが交互に襲ってくる。
その航海の途中多くの赤ん坊と病人が死に、水葬が行われ遺体は白布に包まれて海中に投棄されていった。弟も栄養失調でほとんど死んだようにぐったりとしたままで、もう助からないだろうと誰もが感じていた。
そして日本への旅が終わり、私と弟は無事生き延びる事ができたのである。
シベリアから父はなかなか戻らなかった。母は編み物や洋裁で収入を得て生活費を稼いだ。そうした困難な暮らしがストレスとなり発病し、四十四歳の若さで亡くなった。
母には感謝してもしきれないと思っている。
そしてこれが私の「思い出の旅」である。
(「エッセイ若杉会 桶川」5月宿題)
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