2009年2月24日 (火)

水上勉の処女出版「フライパンの歌」が書かれた浦和

水上勉全集第26巻の年譜によれば、 「フライパンの歌」は昭和二十三年七月に出版されたという。

年譜の昭和二十三年(1948)二十九歳の項は
「五月、宇野浩二と湯河原、熱海に旅行。短編集『風部落』を刊行。七月、宇野浩二の推薦により、文潮社より『フライパンの歌』を刊行、ベストセラーになる。十月、浦和市白幡町の内田辰男方に転居。文潮社に入社。季刊誌「文潮」に、「わが旅は暮れたり―雁の寺」を発表。のちにこれが改作されて、直木賞受賞作の「雁の寺」になる。十二月、吉行淳之介、柴田錬三郎、青山光二、十返肇らを知る。」
とある。

この年譜の内容によると短編集『風部落』が先に出版されているように解釈される。

しかし水上勉本人も『フライパンの歌』文庫版のあとがきで「『フライパンの歌』は昭和二十三年七月十五日に文潮社から刊行された。私の処女作出版である。」と言っているように、処女作出版は『フライパンの歌』である。初版本の奥付もそのようになっている。

『風部落』はやはり文潮社から出版されたが初版は昭和二十三年九月一日発行であり、そのあとがきに「これは、私の第一創作集である。・・・さて、この本は、私の処女出版であった「フライパンの歌」を上梓して下さったところの文潮社から、またまた発行していただくことになったのであるが、・・・昭和二十三年七月三十日 浦和市白幡の仮寓にて 水上勉」と書かれている。

以上からわかるように浦和への転居が昭和二十三年十月という記述は誤りである。というのは『フライパンの歌』の目次の中に「第十章 蔵住まひ」とあることからもわかるように、浦和移転後の記述が含まれているからだ。

私が最初に読んだ新潮文庫版『フライパンの歌』(昭和三十七年二月二十八日初版発行、昭和四十一年三月三十日三版発行)にそうあったので、処女出版以前に浦和移転があるはずであると思った。さいたま文学館の図書室で初版本を調べてみたが、初版本と文庫本とは内容は全く同じで、「あとがき」が違っているだけである。
つまり浦和移転と蔵住まいの記述は『フライパンの歌』の中に最初から書かれていた。

さらに転居先の内田辰男氏の証言が示しているが、水上勉は浦和の蔵の中でもこの『フライパンの歌』を書き続けていたのである。

また水上勉自身が浦和移転を昭和二十二年と言っていることがわかった。
水上勉『私の履歴書』(一九八九年五月二十日第一刷発行、筑摩書房刊)に依れば、
「虹書房が倒産したときは、先生にはめいわくをかけた。世田谷にできた文潮社へつとめても、宇野先生の厚情はかわらなかった。ぼくは書房の倒産もあって二十二年に神田から浦和へ越した。白幡町の農家内田家の離れであった。そこへもよくハガキがきた。ぼくは浦和から子をつれて、森川町へ通った。M女は生活費をかせぐため、ダンスホールにつとめてくれていた。子はまだ二歳だった。何やかやこの当時のことを書いてゆくと、枚数がつきない。ぼくという人間が、ほんの少しずつうす皮がむけてくる時期はまだ訪れていない。まだまだ鼻持ちならないイヤな男、青二才である。「フライパンの歌」を書いたのはその頃であった。」
とあり、はっきりと浦和移転が先だと言っている。

つまり浦和という町は、水上勉の処女出版作品『フライパンの歌』が書かれた町としての栄誉を荷っているのである。

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2007年8月14日 (火)

私の川柳観について

「私の川柳観について」
        

 朝日新聞六月十四日二三面の記事「日常の息遣い詠み込むー蛇笏賞を受ける岡本眸さん」(佐々木正紀)によれば、岡本眸さん(79)が、句集『午後の椅子』で俳壇の最高賞である第四一回蛇笏賞を受けるという。

岡本さんの「俳句は詠もうと思えば、誰でも、どこでも出来るもの。勝手人間で好きなことをしてきましたが、師や仲間に恵まれました」という言葉と句が紹介されている。

霧冷や秘書のつとめに鍵多く
更けて書く鉛筆くさき春厨
柚子湯出て夫の遺影の前通る
初電車待つといつもの位置に立つ

 四句目の句について、「近くの駅の風景だ。読んだ人が『そう、そうだわ、と思ってくれたらうれしい』。日常の何げない所作、息遣いのひとつひとつを詠み込んできた句は深まり、さらに精彩を帯びてきた。」と記事にある。

 これはまさに川柳ではないか。この眸さんの言葉はまさに川柳の本質ではないか。私の主張する川柳そのものだ。季語が入っているから俳句であるが、私はむしろ川柳の要素が強いと思う。特に四句目は季語は「初電車」だと思うがいつの季か不明である。

川柳以外の何ものでもないと思う。

私の考えは、川柳は五七五以外の何の制限もなく季語を入れてもよいし、俳句となっても良い。俳句と呼べば俳句だし、川柳と呼べば川柳なのだ。

川柳は滑稽を詠まなければならないとか、人情の機微をよまなければならないとかいった制限・枠は一切不用である。詠みたいものを五七五に詠めば良いだけなのだ。

俳句は制限(季語の枠)があるから、詠む時が限られるだろう。川柳はいつでも詠める。なんの制限もないからだ。ただその結果である作品が他の人に受け容れられるかどうかが問題なのだ。

自分の詠んだ川柳が自分の意図の通りに理解されるかは不明であり、多くは読み手の自由に解釈され受け容れられる。

俳句よりもこの点では不利であろう。
俳句の場合は季語で大枠がはめられる。理解もその枠内ですれば良いのだ。

川柳はその点、範囲が広いからその内容を限定して解釈することが難しい。つまり作者の意図を超えて読み手が作品を解釈してしまうということがよく起るのだ。

作者も思っていなかったような理解がされ、その解釈のほうがずっと良いということが起こる。そうした自由性が許される句が「川柳」なのである。

私は眸さんの言葉「俳句は詠もうと思えば、誰でも、どこでも出来るもの」を「川柳」そのものと考える。
これは川柳も俳句も「俳諧」から生まれたものだから当然といえば当然なのだ。

私は俳句より詠みやすい川柳をもっともっと普及させていきたいと思う。五七五を歌のように吐き出していけば良いのである。
川柳のカイコとなって次々に句を詠んでいきたいと思う。

先生の注意
◎川柳は詠みやすく、解釈も自由な点が素晴らしいとあるが、分ったような分らないような気がする。

◎そんなに自由なら五七五でなくてもいいのですよね。五七五もこだわらない川柳もいいとすれば、何をもって川柳とするのかーー素人のワタシには分りまへん、ゴメンなさい。

◎文の流れは良いが、ダブリ(くり返し)が気になる。その部分を倹約して、もっと重要な別のコトを述べたいところ。

       

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2006年12月 2日 (土)

宮澤賢治 2

       「雨ニモマケズ」の最初の発表
   (「岩手日報」昭和九年九月二十一日、四面、学藝第八十五輯)

宮澤賢治氏逝いて一年
遺作(最後のノートから)
         故宮澤賢治

雨ニモ負(原「マ」)ケズ
風ニモ負(原「マ」)ケズ
雪ニモ (原空きなし)夏ノアツ(原「暑」)サ(原「ニ」入る)モ(原空き)負(原「マ」)ケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテイカ(原「瞋」)ラズ
イツモシヅカニ (原空きなし)ワラツテヰル
一日ニ玄米四合ト(原改行)味噌ト (原空きなし)少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトニ(原「ヲ」) (原改行)ジブンヲカンジヨウニ入レズ(原「ニ」入る)
ヨクミキキシ (原空きなし)ワカリ (原改行)ソシテワスレズ
野原ノ松ノ(原「林ノ」入る)陰ノ
小サナ茅(原「萱」)ブキノ (原空きなし)小屋ニヰテ
東ニ病気ノ子供アレバ
行ツテ看病シテヤリ
西ニ疲(原「ツカ」)レタ母アレバ
行ツテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ツテコワ(原「ハ」)ガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンカ(原「クワ」)ヤ (原空きなし)ソシヨウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデ(原「ド」)リノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニ (原空きなし)デクノボウ(原「―」音引き)トヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ (原改行)ワタシハナリタイ


注)最初の発表の段階からこの詩は色々と間違っていたことがよく解る。
題名の「遺作(最後のノートから)」からも解るように「手帳」の現物を見ていない人が執筆したのであろう。
多分詩の写しの提供を受けた記者が書いたものだろうが、この写しが正確でなかったのか間違いが多い。
「ヒドリ」はすでに「ヒデリ」となっており、最初に写した人がそのように解釈している事がよく解る。
つまり「手帳」の発見が東京であったことから、東京人は「ヒドリ」が方言であるかもしれないとの疑問を持つことなく「ヒデリ」と読んでしまった。
「ヒデリ」の書き誤りであろうと解釈してしまった。
これがその後の賢治研究者に引き継がれいまだにその主張が「研究者の主流」となっている。
「ヒドリ」と解釈するものは「愛好者」とされているのが現状だ。
これは由々しき事態である。
方言を深く研究することもなく、賢治の書き誤りとすることは許されることではない。

私は「ヒドリ」は標準語「ヒデリ」の方言化かも知れないとは思うが、現在まで有力な資料がないため、賢治の筆記をそのまま受容するのが良いと考える。
詩の解釈については自分の好きに解釈して良いと思うが、表記については「原文通り」が原則であろう。
校訂については特にそうだ。
「注」で「ヒドリはヒデリの誤りと思われる」、とすればよいのだ。
「ヒデリ」と印刷しておいて、注で「原文はヒドリと表記する」としているのは校訂者の解釈を押し付けるものだ。


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宮澤賢治の死亡記事

「岩手日報」死亡記事(昭和八年九月二十三日、2面)

  詩人宮澤賢治氏
    きのふ永眠す
     日本詩壇の輝しい巨星墜つ
       葬儀はあす執行
 

  (写真)
花巻町豊沢町宮澤政治郎長男宮澤賢治氏はかねて病気中のところ最近小康の状態にあつたが廿一日午後一時半病あらたまり遂に永眠したが享年二十八、氏は先に盛岡高農を卒業、花巻農学校に職を執られ、また田中智学氏のもとにあつて深く仏教をきわめ大正十三年心象スケツチ詩集「春と修羅」「童話集」「注文の多い料理店」を発表して日本詩壇に嘗てない特異の存在を示し新しい巨星として全日本詩壇注目のうちに詩作を発表してゐたもので、詩、童話その他数十巻の未刊の作品を所蔵され、その非ジヤーナリスチツクの故に高名であり『春と修羅』の如きは刊行当時発行所の不誠意から夜店で売られたりしたが現在は所持者は三十円でも手離さない古典的な名詩集となってゐる、尚葬儀は廿三日午後三時から花巻町安浄寺で執行される
(写真は故宮澤賢治氏)


        注) 享年は本当は37歳(1896ー1933)、父の名前は「政次郎」

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2006年9月14日 (木)

笑いについてのとりとめのない考察

「笑いについてのとりとめのない考察」
                          
 最近いつ笑ったかを考えるとはっきりしない。
 それとはなしにいつも笑っているのだから、問題はないとは思うがはっきりとした記憶がないのだ。
 
 記憶に残るような笑いがないと言える。テレビは最近あまり見なくなったからお笑い番組も見ていない。見ていたとしても今の「お笑い」の質的低下は酷いから記憶に残るような笑いは得られないだろう。

 昨日見た寅さん映画の再々々放送は笑いの記憶よりも涙の記憶の方が強い。
見ている時はおおいに笑っていた筈なのに、良い笑いは涙を連れてくる。

笑いはアクションでもあり、それだけなら九官鳥のQちゃんのそれはすごかった。「ワッハッハッハ、ワッハッハッハ」誰の真似なのかものすごい笑いだった。いかにも面白いという笑いであった。
九官鳥は音声だけを正確に真似をするから気持ち悪いのだ。人間にとって笑う材料がはっきりしない笑いは不気味である。

 昔は落語をよく聴きに行った。名人たちが大勢いたから誰を聴いても面白く満足して帰ってきた。ラジオでも落語・漫才・浪曲などをしょっちゅうやっていた。笑いが溢れている時代だった。

 現在は時代が悪い。気楽に笑っていられる時代ではなくなってしまった。毎日日本の各地で残忍な事件が起こっている。都市に限らずどんな田舎でもそれは起こるのだ。こうした時代だから笑えない、笑いのない社会になったのか。それとも笑いがないからこうした異常な事件が続く時代になったのか。どちらにしても笑いのない異常な時代と言えるだろう。

 笑いは健康に良いという。老人がいつも笑っていれば健康に過ごせると言う。
それはそうだろう。体調が悪ければ笑いは出てこない。笑える状態を続けていけば健康が維持される。本当に体調の良い健康状態が実現する。

 笑いは大事である。努力しても笑いを実現すべきであろう。


                ( エッセイ若杉会8月例会の宿題)


 *全体に、軽々と(軽快というイミ)書かれていて好もしい
 *ただ、後半になって投げやりな感じがしてくる。時間がなかったのか・・・。(それにもっとたくさん書きたい)。

                                                    (先生の評)

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2006年4月 5日 (水)

霜田史光作品集について    

「霜田史光作品集」冊子についての感想を記します。内容については、アンケートでも触れたように史光が少年文学の先駆者であることを知り大変興味を持ちました。特に「十五少年漂流記」は愛読書であったので、史光がこの作品の最初の翻訳者であったことを知りうれしく思いました。

 

ただ、メインの詩および詩論については、私自身詩的センスがないためにあまり興味がなく読んでおりませんので、ここではこの冊子自体についての感想を述べることにします。

 

  それはこの冊子の印刷方法・大きさ・装丁等についてです。まず大きさについてこのB5判の冊子は書籍としては大きすぎ、また装丁は書籍としては安っぽくもし市販した場合あまり売れ行きはよくない、ほとんど売れないと思います。

  つまり書籍としてはA5判か四六判ぐらいが読みやすくB5判は大きすぎるからです。

次に印刷方法ですが、奥付けから判断するとデータ入稿による「軽印刷」ではないかと思います。 

 「軽印刷」ですのでやむを得ないかと思いますが、版面(ハンズラ)が統一されていないのは書籍として失格です。意図的に変化させる場合もありますが今回はそうでは無いと思います。40から41ページへの大幅な変化はまずい。データ原稿であれば版面を統一させることはさほど困難ではないと思います。もし版下入稿であれば、出稿者が加工の際統一させなければなりません。

 

  62・85・107ページなどの手書き修正を見ると版下入稿ではないかと思いますが、これは大変にみっともないです。「文字鏡」などのソフトがありますので、どんな漢字でもデータで貼り込めるはずです。データ入稿にせよ、版下入稿にせよ校正がむちゃくちゃ大変だったと思います。今回のような新原稿の少ない本の場合、底本となる本をそのまま利用するのが一番適切だったと思います。つまり先生が今回の講座で配られたコピーのように版下を作成すればよかったのです。

 

  私は若いとき復刻版を出版する小さな出版社に勤めていたことがありますが、原本をそのまま撮影して版下を作成すればよいのです。もちろんコピーでも版下になりますが、市販するような出版物を作るには製版カメラで撮影して版下を作る方が良いでしょう。原本は一度バラすことになりますが、終わり次第再製本して元の様になります。原本そのままの方が、校正の手間もいらずまた出版当時の雰囲気もわかり読者にとってもありがたいのです。特に原本が手に入りがたい本の場合それは嬉しいものです。今は製版カメラによる版下作成もそれほど高くなく出来ると思います。版面にも著作権があるという説もありますが、まだ確定していませんし、全部を商業目的で利用する訳でもないし学術利用ですので問題は無いと思います。

  

  とにかく今回の小冊子を作るにあたっての、「校正の大変さ」は想像するに余りあります。次回以降はくれぐれも最も適切な印刷方法を採用してください。そのためには普段から親しい印刷会社(具体的には相談出来る営業マン)を一つもっているのがよいかと思います。相談したからといって必ずしもその印刷会社に頼む必要は無いのです。適切な印刷方法を選ばないと品質は悪くなるし、校正も大変なことになります。

 

     

                                       

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2006年3月23日 (木)

「ヒデリ」「ヒドリ」論争への私の意見

 萩原昌好先生の「グスコーブドリの伝記」の講座が終了した。宿題はなかったが、その意味をこめて文章をひとつ提出した。

 以下に記す。(雨ニモマケズの一節についての話題です。)

「ヒドリノトキについて」          

私は「ヒドリ」はヒドリであって、「ヒデリ」の誤記ではないと考える。

以下にそう考える根拠を述べる。

1 賢治は「ヒデリ」を「ヒドリ」と誤る癖があった、という説。

そのような箇所があったとしても、手帳がそうであったとは言えない。

手帳の本文をみると、何箇所かに修正が入っている。

   ヨクワカリヨクミキキシワカリ

   ワスレズ→ソシテワスレズ

   稲ノ束ヲ負フ稲ノ束ヲ負ヒ

   死ニサウナ人アレバシヅカニ

                 死ニサウナ人アレバ行ッテ

   マタホメラレモセズ→ホメラレモセズ

他にもあるが、写真からは不明なのでこれだけにする。

もし「ヒデリ」を「ヒドリ」と誤っていたのであれば、賢治は当然修正しているはずである。賢治がそれを敢てしていないということは、賢治は「ヒドリ」と書いたと理解すべきだと思う。

2 冷夏と旱を「対応」させるのが妥当だという説。

これについては「ヒドリ」でも十分対応しているという説があり、私もその説に賛成である。

それは、「ヒドリ」は方言で

「カンカン照りの猛暑が10日も続き空気が極端に乾燥状態になり、戸板などが反り返ったり、日中数時間も戸外におれば、汗が目に入って目がすごく痛くなり、目が真っ赤に充血する一種の日射病に近い目の炎症になり、涙がボロボロと流れて苦しくなると話し、このような炎症になることを別に「ヒドリマゲ」とも言い、今でも「カンカン虫(電気溶接者)」は、電気溶接のとき保護メガネ無しで強烈なスパークを裸眼で何度も見れば510時間後に目が真っ赤に充血して痛くなり涙がボロボロと出る炎症になるから、今も使うよと話した。」

「方言の解釈は、その土地の風習風土から生まれた言葉(方言)や、通称の土地名など熟知しないと正しい意味がくみ取れないもの。他県の賢治研究者は方言の発音語呂を共通語に結び付けて意味を重ね合わせて、自己流に解釈された見本だと、両氏がはっきりと言っていやんした。賢治研究者が「ヒドリ」を「ヒデリ(日照り)」と解釈し、賢治の誤記でミスだと断言して追加訂正までしている。教科書にも「雨ニモマケズ」は「ヒデリ(日照り)」と書かれているが、原書原文のまま「ヒドリ」に復権させて、正しい語句と意味の賢治作品を受け継がせたいと提唱しやんす。(滝沢村、自営業)」

2004 9 14 ()盛岡タイムス 盛岡弁に隠された先人の英知に迫る)

3 「日取り」説

小作人が日雇い仕事等で稼ぐことを「ヒドリ」と言い、賢治はこれを言おうとしているという説。

私は以前はこの説に賛成していたが、2の説から特に「日取り」説でなくとも良いと考える。2の方言説の方が自然だし、なにより賢治の修正がないと言うことを大事にすべきであると思う。

 

                                                以上

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