2006年8月12日 (土)

高島 平三郎 5 

 「高島 平三郎は日本ゴルフの草分けだった?」

 日本ゴルフの草分けは、明治三十年に教育家の高島平三郎が運動調査のためロンドンから取り寄せたクラブを振ったことに始まるとされる。

 同三十二年、生糸貿易業者の新井領一郎が渡米先でプレー、同三十四年には英国の茶商、アーサー・グルームが六甲山上に四ホールをつくるなど意外に古い歴史を持つにもかかわらず、進歩、普及は中断した。

(1983年2月28日、19面、「スポーツ界列伝・中村寅吉①」(朝日新聞)


追加

   昨日(12月1日)、国会図書館で確認したところこの切抜きは「朝日」という事がわかりました。

   中村寅吉さんが書いたものと勝手に思い込んでいましたが間違いです。

   この記事は、「スポーツ界列伝その12・中村寅吉①」という事で朝日のスポーツ関係の記者が執筆したものです。

   従って「高島平三郎が日本ゴルフの草分け」であるという事は、それほどいい加減なことではないようです。

 
   日本ゴルフの歴史に関して調べてみてもはっきりした事は不明です。

   岩波新書の田中義久著「ゴルフと日本人」によれば、

   1901年 神戸に住む英人アーサー・グルームが六甲の山頂近くに4ホールの私的コースを作る。
   1903年(明治36)5月24日 神戸ゴルフ倶楽部開設(会員131人、日本人は7人)。
   1905年(明治38)入会した小倉庄太郎・末子の兄弟が日本人として始めてプレーする。
   1907年(明治40)日本アマチュア・ゴルフ選手権開始(神戸ゴルフ倶楽部・六甲コース)。
         その内容は「在日英国人ゴルフ選手権」というべきものであった。
   1916年(大正5)一色虎児が日本人として日本アマに初参加。
   1918年(大正7)井上信が日本人として初優勝。 
   1927年(昭和2)日本オープン選手権の開始。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2006年4月26日 (水)

偉人 高島平三郎 4

先生の父母

「先生の母堂は、名を加壽子と呼び、父君とは十歳違ひの天保七年甲申の生れであつた。而して其の生家は、岩城平の城主安藤侯の家臣猪瀬才助氏方である。

 猪瀬家は、高島家と同様、藤原家の出で、遠く遡つての家系は、是れ亦詳らかに知るを得ないが、徳川時代の初期に在りては、現今の高梁町である備中松山の城主水谷出羽守家に、典医として禄仕した家柄の由である。

猪瀬家は、決して順風に帆を揚げた舟の如く所を得たものでは無く、水谷家を去つて新たに安藤家に出仕した後は、辛酸に辛酸を重ね、此間、克己、抑制、耐忍、勤勉、等の美風自ら具はるに至つたが、一面又、水谷家家臣時代の悠揚なる家風をも存し、社交に長じ、諧謔に富み、文事を会し、殊に記憶力卓越し、頭脳の明晰なる血統として、藩中齋しく羨望してやまざるところだつたとのことである。

此の特徴を、尽く享け伝へて生れ出でられたのは、正に先生の母堂加壽子刀自であつた。

先生の母堂は、記憶せられる方も尠くは無いと思ふが、容姿風格共に、超百歳の長寿を重ねて、昨年物故された、棚橋洵子刀自に髣髴たる方であつた。・・・

・・・静かに余生を養はれつゝあつたが、明治四十一年九月二十九日、荏原郡下大崎に於ける当時の先生の寓居に、七十三歳を一期として大往生を遂げられたのである。

さて備後福山の高島家へ、岩城平の猪瀬家から嫁がれたといふことは不思議の様で実は不思議でも何でもないのである。それは阿部家も安藤家も、譜代の臣として、徳川家に取りては、共に閣老の格式を以て重く遇せられた家柄であるから、藩侯同士色々の用向きで往き来されたに相違なく、従つて、家臣同士にも深き交りを結ぶに至つた人は尠くなく、縁談の端緒も斯様の処から発したものと推察される。

唯、郎君は備後、内君の祖先は備中に属し、郎君も右筆であり、内君の祖父も安藤家に於て同じく右筆であつたといふことであるが、之は誠に不思議の因縁とも謂うべく、而して又、此の双親の子たる先生に、経文緯武の天賦的素質が多量に認められることの、偶然ならざるをも首肯し得るのである。」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

偉人 高島平三郎 3

高島家

「高島先生 教育報国六十年」により、

高島家につき調査してみる。

 「先生が生をけられた高島家は、江戸在住の時代、屡祝融の災に遭ひ、貴重なる家系や其の他の記録が盡く烏有に帰し、今日其の詳細を温ねる由とても無いが、代々の言ひ継ぎ語り継ぎに拠れば明らかに藤原家よりの別れであつて、中臣鎌足公更には天児屋根命を遠祖とされる家柄であるからである。

 徳川時代の初期に於て、高島家は代々雲州に在住し、出雲判官たりしと伝へられて居るが、当時の事情を明記すべき資料は、遺憾ながら前述の次第で現存して居らぬ。其の備後福山に転じて阿部侯に禄仕するに至つたのは、徳川期の中葉以降との由である。

其の後、高島家は本家と分家とに別れ、本家の当主は、貴族院議員水野錬太郎氏令夫人及海軍少将中川繁丑氏令夫人等の実兄たる、陸軍歩兵大佐高島巳作氏で、分家の方は曽祖父信義氏祖父信賢氏を経て、父賢斎氏に至り、其の後を襲いで先生が、当主として立たれて居るといふ次第なのである。」

 

 先生の父母

「先生の父君賢斎氏は、博聞強記、漢書を学び、手蹟も亦勝れて見事であつた為めに、夙に阿部侯の右筆として側近に奉仕するの寵遇を受け、

維新以後の晩年に在りては、国表の福山に閑居して読書に親しみ、先生が未だ志学の齢にも至らずして小学校に教鞭を執られることとなるに及んでは、貧困の裡、何等の報酬をも受くる事なく、或は進んで習字の教授に当り、或は学童及其の父兄等に対して、懇ろなる訓話を試み、直接間接に先生の事業を助けて、地方の教化に努められ、

後、先生が撰んでられて学習院に奉職することとなり、遠く東上せられるに至りては内政たる先生の母堂と共に福山に留まり、風月を友とし且つ先生の前途に甚大の望みを繋け、静かに余生を養つて居られたのであるが、

明治二十五年三月二十三日六十八歳を一期として、不帰の客となられた。」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月23日 (木)

偉人 高島平三郎 2

「日本の古本屋」で「頼山陽」を購入する。

高島平三郎序・高島忠雄著、三教書院偉人叢書2(昭和15年4月20日発行)。

忠雄は平三郎の三男で二十八歳の時の出版であり、生涯唯一の本となった。

序に

「頃日、三島通陽子爵を通じ、山教書院より、「頼山陽」の執筆を余に懇請されたので、余は快諾したのであるが、その後、幾ばくも無く、病を得て入院したので、末男忠雄をして、稿を起こさしむることした。忠雄は、余の専攻せる心理学を修め、数年前東京帝大文科の業を卒へ、今現に教育に従事せる者で、かねて余の山陽フアンたる事を熟知し、余の山陽に関する蔵書は、大抵通読せることでもあれば、本人も興味を以て、之を諾して筆を進めた。

彼に取りては、本書は処女作ともいふべきもので、余はその組織、内容、文章等に就いても、多少の不安を持つて居たが、脱稿したものを一読するに及んで、全く余の期待以上ともいふ可く、余は非常の満足を以て、更に厳密なる校閲の下に、多少の筆を加へたのであつた。初めは、余の名を以て、公にする筈であつたが、余としては、折角彼が興味を以て、忙しい中より努力して書き上げたもの故、正直に彼の名を以て発表することを、三教書院の主人に交渉したら、主人もよく分つた人で、直ちに快諾したので、この書は、正当の著者の名を以て、世に見参することゝなつたのである。

読者が之を諒知せられ、父子の心事に共鳴して此書を読まれんことを望む。

  昭和十四年六月十日          高島平三郎識  」とある。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月13日 (月)

偉人 高島平三郎 1

 11日(土)「ALWAYS三丁目の夕日」を見に行く。
 帰りに金木書店で武者小路実篤「おめでたき人」(近代文学館の復刻本)を購入。それは献辞に、
「高島平三郎先生に
この小冊子を
千の感謝を以て奉る。」
とあったからで、

 帰宅後、高島平三郎研究の基本図書である「高島先生教育報国六十年」をみたところ、武者小路実篤の文中に次のように出ていた。

「僕が五つ位の時、僕の兄が学習院の初等科(小学校)一年に入つた時、受け持ちの先生が、高島先生だつたので、年前夫を失なつて母は兄の教育に就て万事先生に御相談した。・・・その結果は僕の教育に就てもいろいろと母は教はつたにちがいなかつた。・・・
 先生が大崎に移られてからも、兄と楽之会に行つた。その内に僕も二十五六になつた。白樺を出すことにきめた時も、出版所になつてもらう本屋をさがした結果、僕が先生の処で洛陽堂の主人、河本亀之助氏と知りあつてゐる話を皆にして洛陽堂に出版所になつてもらうことにした。洛陽堂に出版所になつてもらうのを始めてたのんだのは、高島さんの大崎の御家の庭だつたことは今でも覚えてゐる。・・・

 僕は先生から直接学校で教へをうけたこともなく、一人でお伺ひして、いろいろ教へをうけたり、御相談したりしたことはなかつたが、母や兄を通し、また楽之会の先生のお話、その他御生活で、知らず知らず受けた感化は存外多いと思ふ。・・・」

| | コメント (0) | トラックバック (1)