2006年8月12日 (土)

網野 善彦先生のこと

 網野先生は僕の高校時代の先生であった。

 今でこそ歴史学における網野理論の偉大さは有名だが、その頃の先生はまだほとんど知られることのない研究者であった。先生の『古文書返却の旅―戦後史学史の一齣』(中公新書1503)によれば、「一九五五年六月それまで非常勤講師であった都立K高校にたまたま空いたポストに専任教諭としてすべりこむことができた」とのことだ。
 
 先生は、日本史を中心に、人文地理、世界史、一般社会まで教えたということだが、あまり勉強をしない生徒の一人であった私には先生の授業の記憶はほとんどない。
 先生はやせ気味の背の高い人で一張羅の黒い背広を着ており、ヘビースモーカーで煙草の灰がいつも背広に落ちていた。
 「担任として、社研・部落研の顧問として、生徒たちとも接するようになっていった」と書いているが、私のクラスの担任ではなかったためか、またクラブは別のものを選んでいたから先生との接触はほとんど記憶にない。

 その頃社会情勢は六○年安保条約改訂問題で大揺れに揺れていた。
つまり安保条約の改訂を強行しようとする岸内閣と、それに反対する社会党・共産党の勢力も健在だった。またその頃はまだ労働運動・学生運動もそれなりの力を持っていたので「安保条約改悪反対」というスローガンの下それは大衆運動として盛り上がっていった。
 
 高校生の自分たちにも、その動きはビンビンと感じられていた。
大学生の組織である全学連は既に日共系と反日共系に分かれており、中央は反日共系トロツキストのブントが指導していた事を知るのは大学に入ってからであった。
 高校生への指導は一部の学校を除きほとんど日共系からなされ、いわゆる国会議員への請願を口実とした国会近辺でのおとなしいデモンストレーションが主な行動であった。

 五月一九日の岸内閣による強行採決は安保に反対する全ての勢力の火をつけた。われわれ高校生も翌日には皆興奮して、「もう国会へデモに行かなければならない」という決意にみなぎっていた。K高でも社研のメンバーを中心として直ぐに学内にビラをまき「清水谷の学生決起集会に参加しよう」と呼びかけた。

 そしてこの時網野先生が、私を陰に呼んで注意を与えた。
それは先生が東大の学生の時にかの「皇居前血のメーデー闘争」に参加した時の教訓で、それは「デモに行くのなら、女性を絶対に守ること」というものだった。
 その時はそれ程の意味も分からず聞いていたのだが、今になって考えると網野先生はあの時に普通の先生たちのように「高校生はまだ勉強をする時期なのだから、どんな考え方を持ったとしてもデモには行くな」と説得をしたり、反対をしなかった。
 そしてよくあの血のメーデーからの教訓をわれわれ高校生ごときに真剣に伝えてくれたと感謝している。

 矢張り先生は女性を大事にする本当のヒューマニストであった。

 私が網野先生の偉大さを理解し始めたのは、網野理論を取り入れて時代小説を書く隆慶一郎の「吉原御免状」を初めとする幾つかの作品を読み始めてからだった。
 それまで網野先生が日本の歴史学において「網野理論」をもって「主義を優先するマルクス主義歴史論」と「非科学的な皇国史観」を完膚なきまでに否定し去ったことを知る事はなかった。

 現在、網野理論に基づき歴史の全ての分野で見直しと深化が進められている。私は網野先生の著述を少しずつ読みながら理解して行こうと決意している。
 
 網野先生の不肖の弟子として。

                                          (エッセイ若杉会6月例会の宿題)

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